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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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白隠のアートマン

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○白隠のアートマン

生死はすなわち涅槃である。これこそが世界が変わったということである。

白隠が、32歳の時、夢に母が現れ、直径5、6寸の古鏡を左右の手にそれぞれ1枚ずつくれた。最初は右手の古鏡は光り輝き、その光が心の奥底はおろか山河大地をも底のないほどに照らし抜くほどだったが、左手の古鏡は輝かなかった。そして突然左の古鏡が右の古鏡よりも百千億倍にも輝くように感じた。
これ以後、万物を見ること自分の顔を見るようになった。初めて如来は目に仏性を見るということがわかった。

右の古鏡は生のシンボル、左の古鏡は死のシンボル。左の方が右より尊いからである。これは超能力の発現のようにも読めるかもしれないが、夢の中ではあるが、一つの大悟なのではないか。これぞ生死はすなわち涅槃である確証なのではないかと思う。

如来は目に仏性を見るとは、あらゆる人間・山川草木に神性を見るということか。

白隠はこの夢の後、ある夜法華経を読み、円頓真正の奥義を徹見して、思わず声を挙げて泣いた。



白隠は、まず「自性本有の有様」(アートマン=十牛図の牛)を確認することを隻手の公案で求めたが、これは修行の中間ステージに過ぎない。だから「我があると執着するから生死と涅槃があり、煩悩と菩提がある」として、我つまり「自性本有の有様」すら捨て去った無我こそ涅槃=ニルヴァーナという修行の終着点であるとする。

そこで白隠は説明する。
一本の公案になりきることで、心が死んで意が消えて、万事休した状態となる。そこで何かが起こる。世界の転換であり、「体験とは言えない体験」が起こる。
なぜそれが起こるかは説明していない。
白隠の比喩では、真正でクリアな無我になるには、必ず崖っぷちに手をかけて、その絶体絶命のピンチで、ふっと両手を離せば身体バラバラになり骨も残るまい。しかしそこから蘇(よみがえ)って、四徳の真我にぶちあたることになると。

無我以前の我と以後の我は、同じ我という言葉だが、それぞれ別の世界にある我なのだろうと思う。これぞ世界が変わるということだと考える。

【チャクラと七つの身体-342】
◎アートマン-46
6.禅 ◎○白隠のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト396)

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