◎道元の判定
正法眼蔵随聞記巻六で、侍者懐弉が、公案禅と只管打坐とどちらを好むべきでしょうかという質問をした。
道元は、
『公案を見ていささかわかったようであっても、それは仏祖の道に遠ざかるやり方である。得ることもなく、悟ることもなく、端座して時を移せば、それが仏祖の道の道である。
古人も公案と只管打坐両方勧めたけれど、とりわけ只管打坐を専ら勧めた。また公案で悟りを開いた人がいるといってもそれも只管打坐の功で悟りが開いたメカニズムなのだ。本当の功徳は只管打坐(坐)にあるのだ。』
これを確証するためには、禅での複数の悟りを、人間の内側が見れる能力のある人物が見なければならないが、その確証を信用するかどうかは、受け取る人の智慧証覚によるという面倒なことになるが、そのようなものだろう。
正法眼蔵随聞記巻六で、侍者懐弉が、公案禅と只管打坐とどちらを好むべきでしょうかという質問をした。
道元は、
『公案を見ていささかわかったようであっても、それは仏祖の道に遠ざかるやり方である。得ることもなく、悟ることもなく、端座して時を移せば、それが仏祖の道の道である。
古人も公案と只管打坐両方勧めたけれど、とりわけ只管打坐を専ら勧めた。また公案で悟りを開いた人がいるといってもそれも只管打坐の功で悟りが開いたメカニズムなのだ。本当の功徳は只管打坐(坐)にあるのだ。』
これを確証するためには、禅での複数の悟りを、人間の内側が見れる能力のある人物が見なければならないが、その確証を信用するかどうかは、受け取る人の智慧証覚によるという面倒なことになるが、そのようなものだろう。