◎教信の遺骸は裏の林に晒された
親鸞が晩年に、「わたしは賀古の教信沙弥そのままになりたい」と平素から口癖のように言っていたという。
その賀古の教信沙弥は、親鸞の4百年前9世紀頃の在家の古い念仏者で、妻帯しながら、極貧の生活をした人物。沙弥とは、十戒を受けてはいるものの、具足戒を受ける以前の14歳以上20歳未満の男性の出家者。
教信沙弥は、もともと奈良の興福寺にいた学僧だったが、ある時、奈良の町に好きな女ができたので、寺を捨て、坊主をやめて、播州の加古川の岸で、女と一緒に渡し守をして、口すぎをしていた。彼には子供もいた。
いつも南無阿弥陀仏と唱えていたので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼んだ。
生前の教信沙弥は、「生き物を食べているので、せめて死んだ後の体は鳥獣に供養したい」と遺言したので、家人は遺体を裏の林に捨て、遺骸は鳥獣の食い荒らすところとなった。しかし、不思議にも頭部だけは残されていた。
教信は、非僧非俗で、僧籍もなし、寺院にも住まず、葬式、法事、墓番などもせず、妻帯しながら念仏での求道ををしていた。これでもって死後の遺骸についてのかそけき奇瑞らしきものが伝えられるが、親鸞の臨終同様に奇瑞はなかったのではないか。
現代人も、何のために生きるかという求道テーマに直面し、すべての人が求道者として生きている。現代人は、ほとんどが非僧非俗の冥想修行者だと言える。
冥想技法として念仏を選び、一生南無阿弥陀仏を唱え続けた教信の臨終が平凡なものだったとして、そこに人はただ生きて死ぬだけの「美」を見るにとどまるか、それ以上の弥陀の本願なる慈悲の大海に生きていることを確認するかどうかは、機縁によると思う。奇瑞の有無がポイントではない。
親鸞が晩年に、「わたしは賀古の教信沙弥そのままになりたい」と平素から口癖のように言っていたという。
その賀古の教信沙弥は、親鸞の4百年前9世紀頃の在家の古い念仏者で、妻帯しながら、極貧の生活をした人物。沙弥とは、十戒を受けてはいるものの、具足戒を受ける以前の14歳以上20歳未満の男性の出家者。
教信沙弥は、もともと奈良の興福寺にいた学僧だったが、ある時、奈良の町に好きな女ができたので、寺を捨て、坊主をやめて、播州の加古川の岸で、女と一緒に渡し守をして、口すぎをしていた。彼には子供もいた。
いつも南無阿弥陀仏と唱えていたので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼んだ。
生前の教信沙弥は、「生き物を食べているので、せめて死んだ後の体は鳥獣に供養したい」と遺言したので、家人は遺体を裏の林に捨て、遺骸は鳥獣の食い荒らすところとなった。しかし、不思議にも頭部だけは残されていた。
教信は、非僧非俗で、僧籍もなし、寺院にも住まず、葬式、法事、墓番などもせず、妻帯しながら念仏での求道ををしていた。これでもって死後の遺骸についてのかそけき奇瑞らしきものが伝えられるが、親鸞の臨終同様に奇瑞はなかったのではないか。
現代人も、何のために生きるかという求道テーマに直面し、すべての人が求道者として生きている。現代人は、ほとんどが非僧非俗の冥想修行者だと言える。
冥想技法として念仏を選び、一生南無阿弥陀仏を唱え続けた教信の臨終が平凡なものだったとして、そこに人はただ生きて死ぬだけの「美」を見るにとどまるか、それ以上の弥陀の本願なる慈悲の大海に生きていることを確認するかどうかは、機縁によると思う。奇瑞の有無がポイントではない。