◎大道を天下の人は知ることもできず、行ずることもできない
これは、達磨が当時の人の質問に答えたもの。現代と同様に、ともすればスピリチュアルの窮極は簡単だなどと安易に説明する輩がいたのだ。
『究極の真理はわかりやすい。
「問い、どういうところを、大道は甚だ知り易く、行じ易いのに、天下の人は知ることもできず、行ずることもできない、というのか。どうか説明願いたい」
「答え、このことばはみごとである。高臥放任して(心を高く保ち、身を横たえて自然にまかす。)、何一つ作り出さないのを行道の人と呼ぶ。
何一つ眼に入らぬのを、道を見たと呼び、何一つ知らぬのを、道を修めたと呼ぶ、何一つぜぬのを道を行じたと呼ぶ。(これを)知り易いといい、行じやすいという。」』
(人類の知的遺産 ダルマ/講談社/P219-220から引用)
特に只管打坐などは、ハタ目には何もしていないように見える。窮極の悟りのメカニズムでさえ、そうした眼で捜せば、ネットで見つかることすらある。
これをもって知り易く行じ易いと語れるのは、悟った人だけであり、悟った人が、スピリチュアルの窮極は知り易く行じ易いと語るのは間違いである。
これは、達磨が当時の人の質問に答えたもの。現代と同様に、ともすればスピリチュアルの窮極は簡単だなどと安易に説明する輩がいたのだ。
『究極の真理はわかりやすい。
「問い、どういうところを、大道は甚だ知り易く、行じ易いのに、天下の人は知ることもできず、行ずることもできない、というのか。どうか説明願いたい」
「答え、このことばはみごとである。高臥放任して(心を高く保ち、身を横たえて自然にまかす。)、何一つ作り出さないのを行道の人と呼ぶ。
何一つ眼に入らぬのを、道を見たと呼び、何一つ知らぬのを、道を修めたと呼ぶ、何一つぜぬのを道を行じたと呼ぶ。(これを)知り易いといい、行じやすいという。」』
(人類の知的遺産 ダルマ/講談社/P219-220から引用)
特に只管打坐などは、ハタ目には何もしていないように見える。窮極の悟りのメカニズムでさえ、そうした眼で捜せば、ネットで見つかることすらある。
これをもって知り易く行じ易いと語れるのは、悟った人だけであり、悟った人が、スピリチュアルの窮極は知り易く行じ易いと語るのは間違いである。