◎中露とアメリカの対立
次の世界戦争が起きるとすれば、アメリカ対中露連合になるのではないかと、大方の人が考える時代になってきた。日本はアメリカの側に立つが、中露の極東の最前線にあたることで、大陸間弾道弾の打ち合いになれば、その被害規模は、日本の主要都市が核攻撃されるようなこともありえる。だがそれは、よく予言に出て来る「火の雨」の規模には及ぶまい。
第三次世界大戦で問題になるのは、近代西欧文明の自殺・自滅ということ。人類絶滅ということ。
「ドル崩壊、アジア戦争も探る英国王室とハプスブルク家 宝島社新書 真田 幸光/著 宝島社」などを読むと、欧州の奥ノ院で経済と政治・軍事をコントロールしているのは、英国王室とハプスブルク家であることがわかる、これにチャレンジしているのが中国共産党。その覇権争いの結果が、第三次世界大戦となる。
第三次世界大戦の結果は、技術文明の喪失であり、「再び原始に返るぞかし」だけである。
近代西欧文明は、この2千年間違いなくキリスト教を軸に展開してきた。人類はその知性の発達の結果、19世紀には無神論による共産主義を発明し、共産主義の策源地であったソ連は1990年代に経済的事由により崩壊したにもかかわらず、ロシアがその既得権を継承し、共産中国は建国時に大いにアメリカの支援を得、また小平時代以後はアメリカの継続的な支援を受けて、今や経済では日本を凌駕し、まもなく米国を追い抜いて世界最大の経済大国となるところまできた。
宗教的に見れば、2大無神論国家中露が、キリスト教国家のアメリカに世界覇権をチャレンジする構図である。換言すれば宗教の自由を認めない中露が、宗教が自由であるアメリカと戦うということ。ロシアでは、最近正教会の復活など宗教政策の緩和がなされているようではあるが。
20世紀以前は、個人のカリスマ・リーダーが指導する組織宗教全盛であったが、これを卒業する時代を迎えたのが、現代である。卒業するには、卒業できる社会環境が整わないと多数の卒業生を出すわけにはいかないだろう。その社会環境とは宗教の自由のある国家制度である。
ソ連ではかつてギリシア正教が弾圧され、中国ではチベット・蒙古でチベット密教が弾圧されている。こうした厳しい環境下において、隠れキリシタンのような信仰形態は、現代人の華奢で繊細な感受性では、正統的な冥想生活を継続するのは困難なのではないかと思う。
日本人は、集団的自衛権の議論において、マスコミも含め、隣国が日本本土を攻撃しないみたいなお人よしな幻想の中にいるが、一旦信教の自由を奪われたら、それが花の如きものであるが故に、回復するのは困難を極めるのではないか。実のところ、冥想をする自由すらも累卵の危うきにある。
次の世界戦争が起きるとすれば、アメリカ対中露連合になるのではないかと、大方の人が考える時代になってきた。日本はアメリカの側に立つが、中露の極東の最前線にあたることで、大陸間弾道弾の打ち合いになれば、その被害規模は、日本の主要都市が核攻撃されるようなこともありえる。だがそれは、よく予言に出て来る「火の雨」の規模には及ぶまい。
第三次世界大戦で問題になるのは、近代西欧文明の自殺・自滅ということ。人類絶滅ということ。
「ドル崩壊、アジア戦争も探る英国王室とハプスブルク家 宝島社新書 真田 幸光/著 宝島社」などを読むと、欧州の奥ノ院で経済と政治・軍事をコントロールしているのは、英国王室とハプスブルク家であることがわかる、これにチャレンジしているのが中国共産党。その覇権争いの結果が、第三次世界大戦となる。
第三次世界大戦の結果は、技術文明の喪失であり、「再び原始に返るぞかし」だけである。
近代西欧文明は、この2千年間違いなくキリスト教を軸に展開してきた。人類はその知性の発達の結果、19世紀には無神論による共産主義を発明し、共産主義の策源地であったソ連は1990年代に経済的事由により崩壊したにもかかわらず、ロシアがその既得権を継承し、共産中国は建国時に大いにアメリカの支援を得、また小平時代以後はアメリカの継続的な支援を受けて、今や経済では日本を凌駕し、まもなく米国を追い抜いて世界最大の経済大国となるところまできた。
宗教的に見れば、2大無神論国家中露が、キリスト教国家のアメリカに世界覇権をチャレンジする構図である。換言すれば宗教の自由を認めない中露が、宗教が自由であるアメリカと戦うということ。ロシアでは、最近正教会の復活など宗教政策の緩和がなされているようではあるが。
20世紀以前は、個人のカリスマ・リーダーが指導する組織宗教全盛であったが、これを卒業する時代を迎えたのが、現代である。卒業するには、卒業できる社会環境が整わないと多数の卒業生を出すわけにはいかないだろう。その社会環境とは宗教の自由のある国家制度である。
ソ連ではかつてギリシア正教が弾圧され、中国ではチベット・蒙古でチベット密教が弾圧されている。こうした厳しい環境下において、隠れキリシタンのような信仰形態は、現代人の華奢で繊細な感受性では、正統的な冥想生活を継続するのは困難なのではないかと思う。
日本人は、集団的自衛権の議論において、マスコミも含め、隣国が日本本土を攻撃しないみたいなお人よしな幻想の中にいるが、一旦信教の自由を奪われたら、それが花の如きものであるが故に、回復するのは困難を極めるのではないか。実のところ、冥想をする自由すらも累卵の危うきにある。