◎ゾーンに入りっぱなしで
高野山では、金剛界胎蔵界の両界曼荼羅を見ることができる。タントリズムの特徴としては、両界曼荼羅のような図像を補助として用いる。両界曼荼羅はイラストではあるが、それは世界そのものであり、修行者は、それを単なる挿絵としてみるのではなく、観想法の中で自分自身をその曼荼羅世界の中に進入させ、その宇宙を自分と同化させる。
更に一歩進んで、その宇宙をサポートし、あるいはその世界をクリエイトする聖なる力を自らのうちに組み入れる。
それは、最初は「眼前にありありと見る事」で始まり、それを観想のなかで構成し、更に想像を超えた現実の中で神々の像が活動していることを確認することに進む。
一般に想像というものは、しばしば無秩序に落ちるものであり、想像をある種の自発性の中に投げ入れ、永遠不壊なるビジョンであり現実であるダイヤモンド(金剛石)のような世界に至ることは、グルからの秘密のアドバイスとステップ・バイ・ステップの修行カリキュラムなしでは成らない。
ただしこれに至る際に用いられる教義が、時に肉食、姦淫、殺人までして良いというような奇妙なものとして現れるのは、自分の立ち位置が世界の主宰者であり、修祓を司る神の場合だろう。そうであればそういう奇妙な事を語るかもしれないが、それは単なる一修業者の立場ではあり得ない。
真言立川流などの左道タントラでは「情欲と執着の行為は菩薩行に等しい」みたいな説が出て来るが、文字通りに取り合ってはいけないのはいうまでもないと思う。それは社会ではあり得ないが、ある特殊な修行ステージではそういうことを言う場合もあるくらいに理解すべきではないかだろうか。
彼らは、高野山の人知れぬ一室や、ヒマラヤ山中の洞窟の中で、何か月も何年も修行を続けて、発狂も死にもしなかった修行者であり、そうした立場を経ない人間がタントリズムの言説だけを生半可に解釈しても仕方ないと思う。
高野山では、金剛界胎蔵界の両界曼荼羅を見ることができる。タントリズムの特徴としては、両界曼荼羅のような図像を補助として用いる。両界曼荼羅はイラストではあるが、それは世界そのものであり、修行者は、それを単なる挿絵としてみるのではなく、観想法の中で自分自身をその曼荼羅世界の中に進入させ、その宇宙を自分と同化させる。
更に一歩進んで、その宇宙をサポートし、あるいはその世界をクリエイトする聖なる力を自らのうちに組み入れる。
それは、最初は「眼前にありありと見る事」で始まり、それを観想のなかで構成し、更に想像を超えた現実の中で神々の像が活動していることを確認することに進む。
一般に想像というものは、しばしば無秩序に落ちるものであり、想像をある種の自発性の中に投げ入れ、永遠不壊なるビジョンであり現実であるダイヤモンド(金剛石)のような世界に至ることは、グルからの秘密のアドバイスとステップ・バイ・ステップの修行カリキュラムなしでは成らない。
ただしこれに至る際に用いられる教義が、時に肉食、姦淫、殺人までして良いというような奇妙なものとして現れるのは、自分の立ち位置が世界の主宰者であり、修祓を司る神の場合だろう。そうであればそういう奇妙な事を語るかもしれないが、それは単なる一修業者の立場ではあり得ない。
真言立川流などの左道タントラでは「情欲と執着の行為は菩薩行に等しい」みたいな説が出て来るが、文字通りに取り合ってはいけないのはいうまでもないと思う。それは社会ではあり得ないが、ある特殊な修行ステージではそういうことを言う場合もあるくらいに理解すべきではないかだろうか。
彼らは、高野山の人知れぬ一室や、ヒマラヤ山中の洞窟の中で、何か月も何年も修行を続けて、発狂も死にもしなかった修行者であり、そうした立場を経ない人間がタントリズムの言説だけを生半可に解釈しても仕方ないと思う。