◎高熊山と継体天皇
継体天皇は、古代日本史の一つのターニング・ポイントなのだが、国家神道体制下にあっては、それについて詳述することなど叶わないので、出口王仁三郎が継体天皇について言及しているのは1か所だけ、それも霊界物語第一巻の冒頭である。
霊界物語第一巻の冒頭は、高熊山での仮死状態における霊界修行の序である。
『第一章霊山修業〔一〕
高熊山は上古は高御座山と称し、のちに高座といひ、ついで高倉と書し、つひに転訛して高熊山となつたのである。丹波穴太の山奥にある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神社の在つた所である。武烈天皇が継嗣を定めむとなしたまうたときに、穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうたといふ古老の伝説が遺つてをる霊山である。天皇はどうしても皇子の行方がわからぬので、やむをえず皇族の裔を探しだして、継体天皇に御位を譲りたまうたといふことである。またこの高熊山には古来一つの謎が遺つてをる。
『朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅のその下に、黄金の鶏小判千両埋けおいた』
昔から時々名も知れぬ鳥が鳴いて、里人に告げたといふことである。自分は登山するごとに、三ツ葉躑躅の株は無いかと探してみたが、いつも見当らなかつた。大正九年の春、再度登山して休息してをると、自分の脚下に、その三ツ葉躑躅が生えてをるのを見出し、はじめてその歌の謎が解けたのである。
『朝日照る』といふ意義は、天津日の神の御稜威が旭日昇天の勢をもつて、八紘に輝きわたり、夕日輝くてふ、他の国々までも神徳を光被したまふ黄金時代の来ることであつて、この霊山に神威霊徳を秘めおかれたといふ神界の謎である。
『三ツ葉躑躅』とは、三つの御霊、瑞霊の意である。ツツジの言霊は、万古不易の意である。『小判千両埋けおいた』大判は上を意味し、小判は下にして、確固不動の権力を判といふのである。すなわち小判は小幡ともなり、神教顕現地ともなる。穴太の産土神社の鎮座ありしも、御祭神が開化天皇であつたのも深い神策のありませることと恐察し得られる。これを思へばアゝ明治卅一年如月の九日、富士浅間神社の祭神、木花咲耶姫命の天使、松岡芙蓉仙人に導かれて、当山に自分が一週間の修業を命ぜられたのも、決して偶然ではないとおもふ。
神示のまにまに高熊山に出修したる自分の霊力発達の程度は、非常に迅速であつた。汽車よりも飛行機よりも電光石火よりも、すみやかに霊的研究は進歩したやうに思うた。たとへば幼稚園の生徒が大学を卒業して博士の地位に瞬間に進んだやうな進歩であつた。過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは数百年数千年の後まで知悉し得られたのである。しかしながら、すべて一切神秘に属し、今日これを詳細に発表することのできないのを遺憾とする。』
(霊界物語第一巻の冒頭から引用)
『朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅のその下に、黄金の鶏小判千両埋けおいた』という謎の歌は、至福千年の黄金時代到来直前の、黄昏の時代に、高熊山(高倉に)に三つの身魂による万古不易の神教顕現が行われるという密意である。
また『穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうた』とは、世には出たが、弾圧に次ぐ弾圧で、理解者も乏しく、ほとんど世に知られなかったみたいになっている様は、穴太の皇子に自分を仮託しているところがある。
それでも出口王仁三郎の50年の宗教活動は、この高熊山が原点だった。
継体天皇は、古代日本史の一つのターニング・ポイントなのだが、国家神道体制下にあっては、それについて詳述することなど叶わないので、出口王仁三郎が継体天皇について言及しているのは1か所だけ、それも霊界物語第一巻の冒頭である。
霊界物語第一巻の冒頭は、高熊山での仮死状態における霊界修行の序である。
『第一章霊山修業〔一〕
高熊山は上古は高御座山と称し、のちに高座といひ、ついで高倉と書し、つひに転訛して高熊山となつたのである。丹波穴太の山奥にある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神社の在つた所である。武烈天皇が継嗣を定めむとなしたまうたときに、穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうたといふ古老の伝説が遺つてをる霊山である。天皇はどうしても皇子の行方がわからぬので、やむをえず皇族の裔を探しだして、継体天皇に御位を譲りたまうたといふことである。またこの高熊山には古来一つの謎が遺つてをる。
『朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅のその下に、黄金の鶏小判千両埋けおいた』
昔から時々名も知れぬ鳥が鳴いて、里人に告げたといふことである。自分は登山するごとに、三ツ葉躑躅の株は無いかと探してみたが、いつも見当らなかつた。大正九年の春、再度登山して休息してをると、自分の脚下に、その三ツ葉躑躅が生えてをるのを見出し、はじめてその歌の謎が解けたのである。
『朝日照る』といふ意義は、天津日の神の御稜威が旭日昇天の勢をもつて、八紘に輝きわたり、夕日輝くてふ、他の国々までも神徳を光被したまふ黄金時代の来ることであつて、この霊山に神威霊徳を秘めおかれたといふ神界の謎である。
『三ツ葉躑躅』とは、三つの御霊、瑞霊の意である。ツツジの言霊は、万古不易の意である。『小判千両埋けおいた』大判は上を意味し、小判は下にして、確固不動の権力を判といふのである。すなわち小判は小幡ともなり、神教顕現地ともなる。穴太の産土神社の鎮座ありしも、御祭神が開化天皇であつたのも深い神策のありませることと恐察し得られる。これを思へばアゝ明治卅一年如月の九日、富士浅間神社の祭神、木花咲耶姫命の天使、松岡芙蓉仙人に導かれて、当山に自分が一週間の修業を命ぜられたのも、決して偶然ではないとおもふ。
神示のまにまに高熊山に出修したる自分の霊力発達の程度は、非常に迅速であつた。汽車よりも飛行機よりも電光石火よりも、すみやかに霊的研究は進歩したやうに思うた。たとへば幼稚園の生徒が大学を卒業して博士の地位に瞬間に進んだやうな進歩であつた。過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは数百年数千年の後まで知悉し得られたのである。しかしながら、すべて一切神秘に属し、今日これを詳細に発表することのできないのを遺憾とする。』
(霊界物語第一巻の冒頭から引用)
『朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅のその下に、黄金の鶏小判千両埋けおいた』という謎の歌は、至福千年の黄金時代到来直前の、黄昏の時代に、高熊山(高倉に)に三つの身魂による万古不易の神教顕現が行われるという密意である。
また『穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうた』とは、世には出たが、弾圧に次ぐ弾圧で、理解者も乏しく、ほとんど世に知られなかったみたいになっている様は、穴太の皇子に自分を仮託しているところがある。
それでも出口王仁三郎の50年の宗教活動は、この高熊山が原点だった。