◎アートマンを直観
『「気」の社会秩序観・試論,
かなり前のことだが、私は中国近代の思想家として名高い康有為や譚嗣同の著作の中にエーテルとか電気・光を「気」として解釈し、これが万人にそなわっているがために、人びとと通じあい、人びとの苦悩を救えるのだと強調しているのを読んで、大いに驚き、いまだに強い印象が残っている。「大問書」の冒頭、「人に忍びざるの心あり」から一例を引用しよう。
もし私の身体がなければ、私にどうして知覚があろうか。またどうして親しみがおころうか。私に身体がある以上、気が天と通じあい、質(気の凝縮したもの)が地と通じあい、息(気息)が他人と通じあっているすべての人びとの身体とは、いったい断絶できるのだろうか。
(中略)断絶できないとすれば、気は空間に充満してどこにでも存在し、電は気をつたってど
こにでも通じ、水は地をめぐってどこにでも貫き、脈は身体をめぐってどこにでもとおっているのだ。山はその気が絶えれば崩れるし、。人はその気脈が絶えれば死に、地はその気が絶えれば散り散りになる。とすれば、人がその「人に忍びざるの心」(孟子の語)という愛質(愛という気)を絶たれるなら、人道は滅んでしまうだろう。』
(中国古代の占法/坂出祥伸/研文出版P5から引用)
気はエーテル体レベルだが、エーテル体レベルで万物が連携連続しているわけではない。世界のすべて、過去現在未来とあらゆる森羅万象、あらゆる生命あらゆる無生命を包含した「この一なるもの」は、アートマンであって、エーテル体レベルのものではない。
気が凝れば脈となり、物質(土)になるというのも、あまりにも気が万能すぎる。よってこの説は想像の産物ではあるが、アートマンを遥かに遠望してはいるというところだろう。
『「気」の社会秩序観・試論,
かなり前のことだが、私は中国近代の思想家として名高い康有為や譚嗣同の著作の中にエーテルとか電気・光を「気」として解釈し、これが万人にそなわっているがために、人びとと通じあい、人びとの苦悩を救えるのだと強調しているのを読んで、大いに驚き、いまだに強い印象が残っている。「大問書」の冒頭、「人に忍びざるの心あり」から一例を引用しよう。
もし私の身体がなければ、私にどうして知覚があろうか。またどうして親しみがおころうか。私に身体がある以上、気が天と通じあい、質(気の凝縮したもの)が地と通じあい、息(気息)が他人と通じあっているすべての人びとの身体とは、いったい断絶できるのだろうか。
(中略)断絶できないとすれば、気は空間に充満してどこにでも存在し、電は気をつたってど
こにでも通じ、水は地をめぐってどこにでも貫き、脈は身体をめぐってどこにでもとおっているのだ。山はその気が絶えれば崩れるし、。人はその気脈が絶えれば死に、地はその気が絶えれば散り散りになる。とすれば、人がその「人に忍びざるの心」(孟子の語)という愛質(愛という気)を絶たれるなら、人道は滅んでしまうだろう。』
(中国古代の占法/坂出祥伸/研文出版P5から引用)
気はエーテル体レベルだが、エーテル体レベルで万物が連携連続しているわけではない。世界のすべて、過去現在未来とあらゆる森羅万象、あらゆる生命あらゆる無生命を包含した「この一なるもの」は、アートマンであって、エーテル体レベルのものではない。
気が凝れば脈となり、物質(土)になるというのも、あまりにも気が万能すぎる。よってこの説は想像の産物ではあるが、アートマンを遥かに遠望してはいるというところだろう。